119. 荒川亮太の道のり〜最終話〜
2022年09月02日
今回は尾州での話をさせて頂きます。
尾州で働き始めたのが、今から6年前くらいになります。
なんとか尾州で働き始めることができましたが、すぐに生地の規格が出来るわけがなく、生地を織る工場で経糸を準備する整経という仕事をさせて頂きました。
全くの初心者でしたが、ちょっとしたミスでもカバーして頂ける環境でした。
カバーしきれないミスもありましたが、失敗して覚えろみたいな教えだったので、強く怒られることはなく凄いやり易い環境でした。
今思うと現場を経験したことは凄く良かったと思います。
生地がどうやって作られるのか、流れがしっかり把握できたことや、色々な会社の生地の規格書を見ることが出来るので、なんとなく生地の規格が自然と理解できるようになっていきました。
生地分解と言って、出来上がった生地の糸を一本一本ほついて、どのような規格で生地が作られているか把握する方法があります。
分解は生地規格をやる上で必ずできなければいけないことです。この生地分解も教えて頂き、意外に楽しくて暇な時は分解したりしていました。
例えば新作の生地が入ってきて、この生地の組織・糸使いは調べたりします。これだけで全てが分かるわけではありませんが、良い規格の生地だなと把握することができます。
この工場に勤めはじめた頃から、自分でオーダースーツの仕事もやり始めました。
自分で生地を規格して、服を仕立てる。
生地の規格の仕事をやりたいと思った時から、この気持ちが強くなってきました。これしかないと思いました。
しかし始めて、最初の半年ぐらいは全く売れませんでした。当時は一生売れないんじゃないかとも思いました。
そして初めて一着売れた時の嬉しさは今でも忘れません。
今でも帰りの名古屋高速の夜景が忘れられません。笑
今でも注文頂けると凄く嬉しいですが、やっぱり最初の一着目は何か特別なものがあります。
なんか本当に不思議な感覚です。
こうして自分で生地を規格して、服を仕立てる目標に邁進していきます。
そして工場勤務から約2年後、ついに生地の規格に携われることになります。
転職という形で、生地規格の部署に入ったのですが、自分が好きな生地を作ってもいいぞという最高な環境でした。
色々な生地を分解しては、ちょっとアレンジして生地を規格したりしてました。
最初の頃は少し変わった生地を規格していました。
今最初の頃の生地を見ると、めちゃくちゃダサいなと思います。笑
最初の頃は、生地と服を別で考えていて、いい生地は良い服になるみたいな考えでした。
今は服から生地を考えるようにしています。
例えば夏でも着心地がいいパンツが欲しいなと思い、そこから生地を規格していく感じです。
アイテムを考えずに、生地を作っても中々売れないのだなと実感しました。
そして生地の規格をして一年程経ちまして、重大な出来事が起こります。
自分が規格した生地が、パリコレに出ているブランドに使われたのです。
これもはちゃめちゃ嬉しかったです!
全く有名ではないブランドですが、自分が規格した生地が服になってランウェイを歩く。こんな嬉しいことはありません。
ずっと1時間くらいそのブランドのインスタグラムを見ていた記憶があります。笑
自分の規格した生地が世界に出る、なんか凄く不思議な感じでした。
自分にとってはこんなに嬉しいことはないのですが、尾州の生地は沢山海外のブランドに使われているので、そこまで特別なことではないのです。そのくらい尾州の生地は世界でも評価が高いです。
勤めていた会社でも、バレンシアガ・イザベルマラン等(もっとあったのですが、思い出せません。)に生地を売っていました。
今でも生地を規格できる環境を頂きながら、オーダースーツの事業をしております。
生地を作ることは中々、自分のような一人の規模ではできません。色々な人が関わったり、多くのお金が必要です。
生地を規格して、作れることが本当にありがたいことです。
糸から生地にして、服を仕立てる。これを一着一着積み上げていけたらと考えております。
今回が最後の回になります。
できる限り客観的に書くことを目標としてきましたが、自分を良く見せたい気持ちは消せませんでした。笑
こうやって人生を振り返ることができたことは凄く良かったと思います。
今後も、もっと服を探求し、愛着を持って頂ける服を仕立てていきたいと思っております。